2010年10月12日火曜日

長時間労働、規制は弊害も

【日本経済新聞 経済教室(2007年11月6日)制度をつくる「法と経済学」の視点(上)】


医学が裏付ける上限設定は妥当

近年、劣悪な労働環境に起因する心身の疾病や過労死・過労自殺の問題に注目が集まっている。パワーハラスメントに対し労働災害を引き起こす要因であると認定した十月十五日の東京地裁判決も、メディアで大きく報道された。製薬会社の男性社員が自殺したのは上司による暴言が理由であったとして労災認定が争われていた裁判である。

健康被害につながる長時間労働や過労死を防ぐのにどんな施策が有効なのか。本稿では法と経済学の手法を用い考えてみたい。これは当事者たちのインセンティブ(誘因)を重視するアプローチで、その際に重要なのは、施策の直接的効果だけでなく波及効果も考えることである。

まず労働時間を直接規制する場合の効果を考えよう。例えば週あたりの労働時間を五十時間までに制限するような法律は実効性を持つだろうか。業務の忙閑の差が大きいホワイトカラー労働者を想定すると、忙しい時期にこの上限を超える労働が必要になることもあるだろう。高い業績評価や昇進などを求める労働者は、上司から依頼された仕事量を規定時間内に終わらせることができなかった場合、記録に残さない形で仕事を続けるだろう。こうした当人同士の(暗黙の)合意や裏取引を取り締まることには費用がかかりすぎ、中途半端な時間規制は実効性を持たない。

ただし時間規制が全く役に立たないわけではない。医学的に裏付けのある数字を基に、たとえ上司と部下が合意していたとしても超えてはならない労働時間の上限を設定するのは意義がある。そして部下に健康被害が発生した際に、この強行規定に違反していた実態があれば、上司がその責任を負うとすれば良い。

割増賃金上げも長期的効果なく

ここで注意すべきは、過労死は長時間労働だけの問題ではなく、個人の性格や周囲との関係など複合要因で起こる点だ。例えば、一部の有能な労働者に仕事が集中することや、責任感が強かったり頼まれごとを断れなかったりする性格の労働者に周囲が仕事を押し付けることはよくある。そうした場合、労働時間に上限規制を課しても、労働者は自宅に持ち帰ってでも仕事をしてしまう。

次に残業に対する割増賃金率を引き上げることの効果を考えたい。ここで割増率を、既存の従業員に残業させるより新たに労働者を採用した方が企業にとって得になる程度に高い水準に設定したとしよう。このとき業務量が年間を通じて安定的な企業は、割増率が上がると、八人の労働者を十時間働かせるよりも十人の労働者を八時間働かせることを選ぶだろう。しかし、仕事量にはたいてい波があり、企業が一番忙しいときでも残業を命じる必要がないよう予備の人を抱えておくことは非現実的だ。よってこの施策で、残業は完全には無くならないが、残業時間の減少と労働者数の増加という短期的な効果は期待できる。

しかしこの効果は長続きしない。労働者の受ける待遇は、結局は市場の圧力で調整されてしまうからである。割増率が引き上げられると、企業は賃金総額があまり増えないようにするため基本給を実質的に切り下げる調整を行うだろう。基本給をすぐ引き下げるのは難しいとしても、物価上昇時に給与を引き上げないことによる実質的な切り下げは可能である。

このとき残業をしなければ以前と同じ水準の賃金を得られず、余暇より残業を望む労働者が増えるため、結果として平均的な残業時間は増えてしまう。与えられた仕事を法定労働時間内に終わらせることができる有能な労働者の実質的な賃金が下がるなどの副作用も考えられる。いずれにせよ割増賃金率による長時間労働の抑制は難しい。

時間規制や割増賃金率引き上げの効果があまり期待できないとすれば、どうすればよいか。ここで視点を変え、商業施設での火災により死傷者を出さないために何が必要かという別の問題を考えてみたい。そもそも火災を出さないことが重要だが、火災発生を前提とすると、まず避難出口が存在することは必須である。また出口への誘導路が分かりやすく、従業員が客を的確に誘導し、パニック時でも客が誘導路を認識できることなどが必要だろう。早期消火用のスプリンクラー設備なども役に立つ。

労働災害を防ぐ手法もこれと似ている。まず過重な労働に直面した労働者に出口が用意されている必要がある。外部労働市場が十分に整備されていれば、転職を考えたときに生活水準が極端に落ちる心配をせずに退職できるだろう。このとき年金が持ち運び可能であることや、労働者が失業保険の機能を良く知っていることも求められる。

一見、被害者である長時間労働者が退職を選択し、それに伴い生活水準が落ちるのは正義に反するようにも思える。しかしそうした考え方は波及効果を考えていない、いわば「事後の議論」だ。過重な労働環境に直面した労働者がそれほど負担なく転職できるようになると、そもそも上司が命令できる仕事の絶対量が減る。そして矛盾するようだが、転職が容易になることで労働条件が改善され、転職する必要がなくなるのである。

政府の役割は成功例の紹介

一方で、退職という合理的な判断ができなくなってしまった労働者の保護も考えるべきだ。それには過重労働が発生していることを当人と周囲が認知する必要があり、業務記録、産業医と連携した健康管理、匿名で受けられるカウンセリングサービスなどが有効だろう。

本来、管理職には業務分担の決定に際し、部下の肉体的・精神的負荷に常に配慮することが求められている。健康被害を出さないようにするには、管理職への動機付けが必要であろう。現在でも多くの企業で、健康被害を出した管理職は管理能力がないと見なされて降格や配置転換などの実質的な罰が事後的に与えられていると思われる。しかし被害を出さないために重要なのは事前にルールが良く認知されていることであり、管理職に対して罰則を明示的に周知しておく必要がある。

ただし中間管理職にすれば、上から与えられたノルマなどに追われている場合には、部下の健康状態を楽観視してしまうか、自分が業務を抱え込んでしまいかねない。直接の上司のみの動機づけだけは不十分であろう。

長時間労働や労働災害を防ぐには、労使の自発的な取り組みが重要だ。これまで見たように、法律や規制で現状を変えようとしても、当事者たちのインセンティブの観点から適切なものでなければ、結局は実効性のないものになってしまう。

こうしたときに有効な手段とは、労働基準法などに違反し被害を出した場合にはそれなりの罰則が企業に課されることのみを決めておき、実際の保護手法は労使の自発的な取り組みに任せることだ。このやり方の最大のメリットは、政策立案者の発想を超えた、世間に広く存在するアイデアが有効活用される点にある。そして政府の役割として求められるのは、自発的取り組みの成功例を紹介することだろう。

法と経済学は、問題が発生したことを前提に、それをどう裁くかという事後の視点ではなく、そもそも問題を発生させないための施策を考えるという事前の視点から物事を見るものだ。本稿で議論したように、労働者を保護するという目的に対し、一見有効に思える施策であっても実は当事者たちの行動の変化で効果が打ち消されてしまったり、副作用が大きすぎたりすることもあり得る。これは事前の視点から分析されて初めて分かる問題だ。

特定の問題に対し提示された、法と経済学的に正しい解決策が、人々の直観に反するものであるとき、そもそも提案者が抱いている目的が自分たちと違うのではないかと誤解されることも多い。提案する側の誠実な説明ももちろん必要だが、法と経済学に対する理解も望まれる。

6 件のコメント:

  1. こねこねこ2011年4月12日 19:30

    「小児科医のつぶやき」というブログでは医者の労働問題が頻繁に取り上げられていますが、人数不足・赤字の抑制などによって罰則等を付けても超過労働が減る気配がなく、適当な理由をつけて残業費すら出さないところがかなりあります
    また、医者ではない職業の方々でも、残業費が支給されず、いわゆるサービス残業という状態に置かれているところがあります
    (しかも、日本の場合、一度やめると、年齢によっては次の就職先がなくなってしまうので辞めるに辞めれないという状況があります)
    個人的には労働基準法の違反の罰則が軽すぎるのも一因だと思うので、悪質なケースの場合は数千万単位の罰金を科して、サービス残業をさせても得にならないぞと知らしめたほうがいいように思うのですが、こういう政策をとろうとしないのはなぜなのでしょうか?

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  2. >このとき業務量が年間を通じて安定的な企業は、割増率が上がると、八人の労働者を十時間働かせるよりも十人の労働者を八時間働かせることを選ぶだろう
    労働基準法では割増賃金を支払わない場合、罰金を払わせる規定があるのですが、その額はインサイダー取引と比べると非常に少なく、50万程度でしかありません
    そもそも、労働者が働いている時間帯と労働基準監督署が開いてる時間が重なっており、土日に開いていることはまずありません。
    借りに垂れこんだとしても、よほど悪質なケースでなければ、監督署自体が動くことはまずありません
    今の現状は企業が残業代を払わない方が得なので、増加率を上げたとしても、そもそも払わないケースの方が多いと思います
    素人考えでは、残業代を増やす→労働者が増える→賃金が下がるので、生活水準を保つために残業をするということ自体、起きないように思うのですが、どうでしょうか?

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  3. スパムフォルダに入っていたコメントを反映させました。
    お返事は明日書きます。

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  4. こねこねこさん

    コメントありがとうございます。サービス残業は難しい問題ですね。有資格者であるために,一般的なサラリーマンよりも転職や独立が容易なように思える医師の場合でもサービス残業が行われているとのことですが,だからこそ,なぜなくならないのかを慎重に考える必要があります。

    そもそもサービス残業には様々な理由があるはずです。雇う側が労働力を安く買い叩きたいと考えているからだというのは一面的でしょうね。

    ホワイトカラーのサラリーマンを想定しましょう。例えば同期入社の二人に同じ仕事が割り振られて,一人は仕事が速いがもう一人は定時では終わらないとき,残業代がきちんと支払われるとしたら後者の方が今月の賃金が高くなるでしょう。それを防ぐためには成果主義を導入せざるを得ませんが,労働者にとってそれが望ましくないかもしれません。

    仮にペナルティー強化によりサービス残業を無くそうとしたらどのような弊害があるのかについては良く考えておく必要があります。

    仮に残業代が月に40時間分までしか付けられない等の制約があったとしても,場合によってはボーナスや昇進でバランスが取られているからこそ,労働者は納得しているのかもしれません。

    ペナルティー強化により固定給が減り,ボーナスの差や変動が大きくなるとすると,相対的に仕事が遅いが時間をかければきちんと成果を出せるタイプの労働者が困らないかなど検討すべきことは多そうですね。

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  5. 匿名さん

    コメントありがとうございます。
    罰則を厳しくすることがベストかは検討の余地があると上でも書きましたが,私は中小企業の経営者でも労働者でもきちんと守れるルールを作って,きちんと守らせるということが重要だと考えています。

    ルールの水準を厳しくしすぎると,例えば高速道路の速度制限のように,少しくらいの超過は皆が当然だと思っていて,取り締まりも頻繁には行われないような状態になる恐れがあります。

    実態をもう少し見なければ何とも言えませんが,労働基準監督署がなぜ法令違反企業を片っ端から摘発しないのかを考えるときに,彼らが怠けていると考えることもできますが,一方で厳しく取り締まりすぎると経営継続が難しくなり労使双方の不利益になる等のことも考慮しているのかもしれません。

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  6. こねこねこ2011年4月18日 1:20

    >munetomoando
    ありがとうございます
    労働力を安く買いたたくという側面だけではないのですね
    >仮に残業代が月に40時間分までしか付けられない等の制約があったとしても,場合によってはボーナスや昇進でバランスが取られているからこそ,労働者は納得しているのかもしれません。
    何年か会社勤めをし、サービス残業をしたことがありますが、上司から命じられてタイムカードを定時で押させる。どことなくおかしいと感じるけど、上司に逆らうと不利益があるので仕方なく命令に従い、残っている仕事を片付けるという感じでした
    昇給自体は全くなく、給料はいつまでたっても入社した時のままというパターンでバランスが取れているとはいい難く、利益を少しでも増やすためにやっているような感じでした

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