2011年1月28日金曜日

澤井さんへの返信(その2)

丁寧なお返事をいただきありがとうございます。「経済学者vs弁護士の雇用規制緩和に関する議論に絡んでみた(その2)」を拝読して,自分の説明が足りなかったところと澤井さんが心配されている論点とが明確になり,とても感謝しています。

まず説明不足だったと思われる点は,大きく分けて次の4点です。

  1. まず私が提案している労働ルールの変更を,私は「解雇規制の緩和」であるとは考えていません。例えば既存の契約については,これまで不明確で予測が難しかった整理解雇の要件を合理化・明確化すべきだと私は主張していますが,これは中期雇用導入の有無とは関係なく,合理化・明確化が労使双方の利益になるものだと思うからです。当然,この取り組みによっても,これまでの約束を使用者側が何の制約もなく一方的に反古にすることが認められるわけではありません。
  2. また私は中期雇用を可能にすることも主張していますが,これは「原則3年までの短期か定年までの長期かという極端な二択に,契約が限定されていること」を崩すのが目的です。よって新規契約に関しても,個々の契約において解雇しないという約束がなされた範囲では,雇用保障が依然として実効性を持ちます。
  3. さらに重要だと考えている変更点は,長期雇用に関する雇用保障の構造をこれまでよりも明確なものにすることです。俗に終身雇用と呼ばれる定年までの長期雇用は,現時点では期限の定めのない雇用契約と整理解雇法理により実質的に実現されています。これに対して今後は,定年までの片務的な長期雇用保障契約を労使が結ぶ場合でも,明示的な期間を定めた契約を締結すべきだと考えています。これは例えば大学新卒の22歳の人に対して,企業が65歳の定年時までというおよそ44年契約を明示的に提示するということです。しかし,これだけ長期の契約となると環境の変化等への対応が不可欠でしょう。よっておそらく長期雇用の場合には,労働条件の変更による待遇悪化の可能性,また分社化や他社への部門譲渡の可能性,そして整理解雇が行われるとしたらどのようなときかという要件等を可能な範囲で明示する特約が付くことになると思われます。そして予測できなかった事態への対応については誠実な交渉義務を課すといった条項も含まれることになるでしょう。
  4. さて,そもそもこれまでのわが国の労働政策は,極端な言い方をすれば,高度成長期に大企業でたまたま発生して上手くいったように見えた労働慣行を,中小企業にまで強制しようとして失敗した歴史とは考えられないでしょうか。おそらく中小企業においては,実現不可能な労働ルールを守るように言われて,実際には無理だと労使が判断して無視していたというのがこれまでの実態でしょう。つまり現在まで,中小企業の労働者は実質的には保護されていない状態だったのです。そこで前回申し上げたように,守れるルールにするかわりにきちんと守らせることが重要だと考えています。

私が述べている案に対して,澤井さんが様々な心配をなさるのは当然のことです。上記のように様々な不具合もあるものの,これまでとりあえずは機能してきた制度に手を加えることにより,現状と比較して全員が損する可能性さえもあるからです。よって労働を取り巻く関係者の全員が理解し納得した上で,100%確実とは言わないまでも「まあやってみても良い」と考える合意形成が必要です。そのために必要となる取り組みは,ルール変更を提案する側に課された責務であるとも言えるでしょう。

そこで最近,私は労働法学者の野川忍さんと共同で雇用労働問題を議論するBlogを始めました。野川さんとの質疑応答を通じて,これからの労働ルールのあり方についての私の考え方と論拠を今後さらに明確にしていくつもりでいます。

それが一段落した上で,澤井さんから頂いたコメントや疑問点のどれに答えられていて,またどこは回答が不十分なのかをはっきりさせたいと思います。というわけで申し訳ありませんが,もう少し時間を頂ければありがたいです。

今後ともどうぞよろしくお願いします。

2011年1月23日日曜日

澤井和彦さん(ks736877)へのお返事

このエントリは澤井さんのBlog記事
(http://xxx-phere.cocolog-nifty.com/beobachtungen/2011/01/post-2382.html)
に対してのコメントです。Twitterへの連投を避けるためにこちらに書くことにしました。よってまずは澤井さんのBlog記事を先にご覧ください。


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澤井さん,

こんにちは。Blogを拝見しました。長期雇用を考える際に,他の制度との関係をもっと考慮せよとの意見には同意します。しかし細かい点ではいろいろと疑問やコメントしたいことがあります。例えば「労働者は選択できず逆に企業にいいように利用されてしまう」といった表現や中小企業における長期雇用の実態認識等には疑問を持ちました。

まずは守(ら)れないルールについてです。そのようなものは意味がないだけでなく,恣意的な摘発が可能になるため,はっきり言って害悪であると思います。この点については再度議論します。

次に「いいように利用されてしまう」という表現についてです。問題のある人や行為が,労使双方に現実に存在していることは承知していますが,ルールの範囲内での行為を糾弾するような書き方だと冷静な議論が成立しない恐れがあるため望ましくないと思います。

おそらく経済学者の発想では,何らかの好ましくない行為が実際に観察された場合に,それを引き起こした人物を糾弾するのではなく,それを防ぐように誘導できなかった制度設計の問題として捉えることが一般的だと思います。

例えば労働に関するトラブルが発生したとするなら,まずなぜそれを防げなかったのかを私なら考えます。その上で,制度設計のミスが原因なら修正を検討しますし,防ぐことのコストが大きすぎたために「あえて防がなかった」のであれば,定められた罰則を淡々と課すしかありません。

僕がよく例に使うのは自動車事故による死傷者のケースです。まず事故を起こせば相応のペナルティーが課されますね。そして速度制限等の行為規制,自動車の安全基準やガードレールの整備などを総合的に利用して政策目標を達成しようとするのが現実的です。

そしてそれでも防げない事故が発生したとき,被害者側の感情も分かりますが,加害者を過度に糾弾するのではなく再発防止のために何が出来るかを考える方が建設的だと思うのです。もちろん最適な対策は,時代の変化や技術進歩によっても変化するので定期的な見直しが必要ですね。

続いて「雇用の流動化などはすでに長期雇用の条件を満たせなくなりつつある中小企業で構造的に起こっている」との記述がありましたが,端的に言えば事実誤認かと思います。中小ではそもそも長期雇用が例外的であったと捉えるべきではないでしょうか。例えば以下のページをご覧ください。
http://www.chusho.meti.go.jp/pamflet/hakusyo/h17/hakusho/html/17321400.html

また私が中期雇用も許すべきだとしている点について,澤井さんは大規模な制度変更だと捉えられているようにお見受けしますが,私はそうは考えてはいません。変更後も,おそらく大企業では長期雇用が続くと思いますし,これまで実質的に長期雇用ではなかった中小企業の労働者に関しては,現状を追認するというだけではなく「守れるルールになったのだからきちんと守らせる」ことが可能となると理解しています。

また交通事故の例に戻るなら,例えば高速道路で時速100キロメートルまでという速度制限に違反したとして摘発されたときに,現状では「運悪く取り締まりに引っかかった。今度は捕まらないように注意しよう」というような認識を持つドライバーが結構多く存在しているのではないでしょうか。しかし速度制限を実態に合わせて少し緩める代わりに取り締まりを厳格化することで,皆が新しいルールを守るようになれば,結果として現在よりも事故が減るのではないかと私は考えています。

これを労働の話に適用すると,守れるルールであり,かつ本当に守らなければならないルールとすることで,労働基準監督署による取り締まりにも一層の正統性が認められるのではないでしょうか。現状では,労働者が使用者の行為に不満を持っても「他もこんなものだろうな。訴え出ても得しないだろうな」と考えてしまう可能性があるのに対して,このラインを超えたら必ずアウトという線引きを明確にすることは,とても有用なことだと思います。

最後に小倉さんとの会話についてです。そもそも「説得」とは,相手に伝わる語りかけでなくては意味がありません。まあ京極夏彦の小説に出てくる京極堂の「憑物落し」のようなものですね。例えば僕が池田信夫さんと会話した記録のtogetter (http://togetter.com/li/90352) をご覧いただければ,相手に伝わるように注意深く言葉を選んでメッセージを投げていることがご理解いただけると思います。

これに対して小倉さんとのやり取りでは,もっと彼に伝わる言葉が別にあるはずなのに,それを選ばずに次々と「いかにも経済学者的な言葉」を投げつけているという意味において,私に非があることは認識しています。これは小倉さんからのメッセージが千本ノックのように次々と飛んでくるので言葉を選んでいる暇がないというのもありますが,このような乱闘をやると多くの人が面白がって見てくれるため,労働問題への関心が高まるという効果も少しは期待していたりします。まあ投げかけられる言葉への適切な対応が出来ていないという観点からは私の処理能力不足の問題であり,「関心が高まる」などと言うのは後付けの言い訳にしか聞こえないかもしれませんね。

私としては澤井さんから頂いたコメントだけでなく小倉さんからのツイート等も含めて,自分が長い間考えてきた今後の労働ルールのあり方について,どこが分かりにくくて誤解されやすいのかを理解する,そしてもちろん考え方自体に問題があれば修正するためにとても役に立っていると思い,皆さんに感謝しています。今後ともコメントをいただけること,また建設的な議論が出来ることを楽しみにしています。

コメントを頂き,ありがとうございました。

安藤至大


2011年1月17日月曜日

差別の経済分析

前回,差別をなくすためにはどのような施策が必要なのかという問題を議論し始めました。その際に重視したいのは,単純に差別行為を禁止すればそれで問題が解決するとは限らないため,様々な手段を組み合わせることが必要であるという視点です。また何らかの差別是正措置を採用したら事後評価を必ず行うことも重要だと考えています。

そもそも経済学における差別研究は,1950年代から始まりました。1957年にBeckerの有名な著書が出版され,嗜好に基づく差別が経済学の分析対象として初めて俎上に上ったのです。また1973年のArrowの論文などをきっかけとして統計的差別の存在にも注目が集まりました。

このように差別を嗜好に基づく差別と統計的差別とに大きく分けて扱うのは,経済学では標準的です。前回の記事では,嫌いだから差別をするとか偏見があるから差別するというものではなく,ロジックとしてより興味深い統計的差別を先に採り上げたため,このエントリは「机上の空論」であるといった評価もあったようです。しかし,嗜好に基づく差別についても追々検討していきますのでしばらくお待ちいただければと思います。

さて私は,上記の二種類のもの以外にも差別する理由があると考えて,2007年頃に"Implicit reverse discrimination in firms"というタイトルの研究を始めました。そこでは,差別主義者だと思われたくない上司が,少し能力が劣るくらいならあえてマイノリティーを昇進させる可能性があるという意味での企業内の逆差別を採り上げて分析しています。しかしこれは理論的にはMorris (2001)” Political correctness”のロジックを企業内の昇進競争に当てはめただけとしか自分でも評価できないので,残念ですが,いくつかの大学で研究報告をした後にとりあえず放置してあります。おもしろい発展のさせ方ができないかと,この問題も時々考えてはいるのですが。

このように差別問題に興味がある私としては,本業に差し支えない程度に議論を進めていきたいのですが,差別の問題は表現に気を使うためか執筆に時間がかかります。よって,10日ごとくらいにポストできるように気長に進めていきたいと考えています。

それでは。

2011年1月15日土曜日

差別は,それを法で直接的に禁止すれば防げるのか(1)

さて本日は,差別をいかに防ぐかについて考えたいと思います。まず差別を統計的差別と嗜好に基づく差別に分けて議論しましょう。そして後者はさらに心底嫌いだから一緒に働くと生産性が落ちるケースと単に食わず嫌いで雇ってみたら案外良かったとなりうるケースに分けられます

1, 統計的差別
1−1,統計的差別とは何か

まずは統計的差別から見ていきましょう。統計的差別とはどのようなものでしょうか。これは人々が何らかの選択を行う際に,選択肢の事前評価を詳細にするだけの時間がなかったり能力がなかったりする場合に,選択肢が持つ属性に注目して最も平均的な評価が高いと認識されるグループの中から選ぶことなどを意味しています。

例として,定年までの長期にわたって働いてくれる若手を求めている企業が採用活動を行う場合を考えてみましょう。このとき,個別には様々なケースがあるでしょうが平均的には男性よりも女性の方が結婚や出産,また配偶者の転勤等の理由で退職する可能性が高いとするなら,この企業は男性を雇いたいと考えるでしょう。ある女性求職者が「私は結婚しても出産しても仕事は続けます」と面接で言ったとしても,実際には退職してしまうかもしれません。

正規雇用の労働者が離職してしまうことを防ぐ手だてには,例えば年功序列賃金の導入や勤続年数により退職金を大きく変えることなどがあります。これらは給料から強制的に社内預金をさせられて,労働者側からの離職の場合には返してもらえない制度と理解することができます。

しかしこの社内預金を放棄しさえすれば,実質的には離職は自由です。このとき女性の求職者が離職しないことにコミット(確約する)ことができないことが採用されない理由といえます。これは嫌いだから差別をしているのではなく,単に企業が平均的に見て有利な選択をしているだけですね。

別のパターンも見ておきましょう。ここでは人気が高い企業の人事部が誰を面接試験に呼ぼうか考えているケースを想定します。有名大学の学生とそうでない学生を比べたときに,有名大学にも出来の悪い学生がいるでしょうし,そうでない大学にも優秀な学生はいますね。しかし平均的に見れば有名大学の方が優秀な人が多いと企業が認識している場合には,企業は有名大学の学生のみを面接試験に招待するかもしれません。

これも嫌いだから差別をしているのではなく,単に調査費用を節約するために採られている合理的な行動です。仮に面接を行えば誰が有能なのかを確実に判断できるとしても,2割の確率で優秀な人がいるグループではなく8割の確率のグループから選んだ方が効率的です。

1−2,外見以外はまったく同じであっても統計的差別は起こりうる

統計的差別とは,能力等にまったく差異がなくても発生しうるものです。例えば男女間に能力の差(男性の方が重いものを持てるとか)や行動の違い(寿退職をする可能性は女性の方が高い)などが全くなかったとしても起こりえるのです。

外見が赤か緑かだけの違いがある同じ人数の二つの種族があったとして,毎年企業経営者たち(これはどちらの種族でも良い)が採用活動を行う場合を考えてみましょう。ここで本当は労働者としての潜在的な能力は同じなのに,赤のほうが高いという誤った予想を経営者の一部が持っていたとします。このとき「緑は使えないので赤を多く採用したい」と考えるでしょう。

学校教育や職業訓練を受けている段階の若い人々がこの予想を知ると,行動に違いが出ます。赤は採用される可能性が高いので努力することの期待できる見返りが大きく,結果として努力します。一方で緑は,見返りが少ないので,同じ水準までは頑張りません。これは彼らにとって合理的な行動です。

このとき努力に差があるため,採用試験の時点での能力に差が生まれています。本当は潜在的能力に全く差がなくても,差があるという誤解があるだけで本当に差が生まれてしまいました。このように統計的差別とは自己実現的に起こりうるものなのです。

1−3,差別禁止法を制定するだけで統計的差別を防げるのか

さてこのような差別はどのように解消すれば良いのでしょうか。差別を直接的に禁止する法律を制定すれば,それでうまく行くのでしょうか。以下では差別禁止法の内容と役割について考えてみます。

まず法律が「能力に差がないのに色だけで差別をしてはいけない」というものであるときを考えてみましょう。これは能力に差があれば能力が高い方を採用して構わないということですね。先ほどの赤と緑のケースを引き続き考えると,人々が持つ「赤の方が優秀だ」という予想が変わらなければ,やはり努力選択に差が生まれ,結果として能力に違いがあるので,経営者にとっては赤を雇うのが合法かつ合理的行動です。差別はなくなりませんね。

では「最低でも一定割合(ただし5割未満の値)は緑を採用すること」という規制を追加したらどうなるでしょうか。罰則が十分に大きければ企業は緑をその水準まで採用するでしょうが,やはり赤の方が採用される確率が高いために努力と能力の差が生まれてしまいます。これでも差別はなくなりませんね。

このとき企業は「法律があるから仕方なく緑を雇っているけれど,本当は能力が高い赤を雇いたいなあ」と考えているのです。従って採用時の差別とは異なる別の差別が発生するかもしれません。会社にとって緑はいやいや採用させられた労働者なので「おまえは能力が低いのになぜうちの会社にいるんだ」といった視線にさらされることもあるでしょう。

それでは同数ずつ採用することを企業に義務づけたとしましょう。いま考えている設定の下では,このとき時間を通じて差別がなくなります。なぜでしょうか。

ある日を境に同数採用法が施行されると,企業は最初は能力が低い緑をいやいや雇うわけですが,それを見た次の世代は「赤緑が同じ確率で採用されるので頑張ろう!」と考えて同じ水準の努力が選択されます。よって企業が次世代を採用する段階では,経営者は「最近は赤も緑も同じだな」と考えるようになり,生来の能力に関する誤解を解くことになりました。いやあ,よかったですね。

それでは差別が解消された状況を見た政府が規制を撤廃しても問題ないのでしょうか。注意しないといけないのは,労働者が実際に働いたときに生み出す成果が彼らの能力だけで決まるのなら撤廃しても問題ありませんが,不確実性の影響を受けるときはまた差別がある状態に戻ってしまう可能性があるという点です。

ある経営者が,緑の社員が何か失敗したのを見て「やはり緑はだめだな」などと考えてしまうと,次世代の採用に影響が出ます。このとき赤緑間での採用確率が変わるので,その後の世代の努力選択に差が出てしまい,また差別のある世界に逆戻りです。つまり同数採用することを強制する法律が欠かせません。

さてここまでの話は,赤緑間で潜在能力に差がない場合を考えてきました。しかし現実は違います。例えば平均的な能力が同じでも男女間で仕事に向き不向きがありますし同性の中でも能力にバラツキがあるのが現実でしょう。また建設現場の仕事は重労働が多いので男性が多い方がうまくいくといったような,産業により最適な割合が異なることも考えられます。

以下では先ほどの赤と緑の話を用いて,種族内では能力の差がないが企業によって最適な赤緑比率が異なる場合を考えましょう。企業1にとっては赤と緑の能力が同じであるなら8:2の割合で,反対に企業2は2:8の割合で雇用するのがベストとします。このとき同数の採用を法律で強制していると,まずそのことによる生産性の低下が起こります。問題はそれだけではありません。人々の間に規制に対する不満が生まれます。赤も緑も能力は同じなのに,自分に合った仕事ができる企業への就職が阻害されているからです。

また仕事に向き不向きがある場合には,本当は赤を多く雇いたい企業で働く緑のうちの一部は「あいつは仕事ができないやつだ」と周囲から思われてしまいます。この場合にはやはり差別が発生してしまいますね。

ちなみにすべての企業が半数ずつ採用という形の規制であるのが問題であり,政府が企業1には8:2で,企2には2:8で雇うように規制すれば良いと考えるかもしれませんがそうではありません。まず政府に,各企業にとって最適な採用割合を把握する能力があるのでしょうか?おそらく無理でしょう。それではどうすればよいのでしょう。例えば企業側の申告を信じることができるでしょうか?

ここで企業側に赤と緑の潜在的能力に関する誤解がある状態に戻って考えます。企業1に「おまえの企業にとって最適な割合はどうなっているか」と聞けば,それは誤解を反映させた「うちは9:1です」などといったものになるはずです。おそらく申告は歪み,結果として赤が多く採用されることになります。このように,政府が完全な情報を持たない場合には差別禁止法を制定したり採用比率を強制したりしても統計的差別の問題は解決しません。

他に方法はないのでしょうか。いま考えているように赤緑間,そして赤緑内の潜在的能力が同一の設定の下では,実はもっと良い方法があるのです。それは企業に同数の採用を強制するのをやめて,まず教育訓練の段階にある子どもたちに対して一定の努力を強制すること,その上で能力に差がないことを試験データの公開等の様々な手法で宣伝することです。このとき採用が自由であるなら企業は能力が同じであることを前提として自社にとって望ましい割合の採用を行うでしょう。皆が幸せになれます。

差別があるときに「差別をしてはいけません」という法律を作ることや「男女は同じ人数だけ雇いなさい」と規制することを安易に考えがちですが,直接的な規制をすればすべて上手くいくわけではないのです。

では赤と緑の間に平均的な潜在的能力の差がある場合,そして赤同士,緑同士でも能力にバラツキがある場合に,どのような施策をとれば統計的差別を防ぐことができるでしょうか。考えてみてくださいね。

また能力の違いについての統計的差別だけでなく,正規雇用労働者の平均的離職確率が異なる場合に発生する採用に関する統計的差別についても対策を考えてみてください。場合によっては完全な差別解消はどうやっても無理だとあきらめざるを得ないかもしれませんが,その場合でもできるだけ望ましい状態に近づけるための施策を考えましょう。

というわけで続きはまた後日!

2011年1月14日金曜日

法的規制とインセンティブに働きかける制度設計の連携

こんにちは。今日はタバコのポイ捨てをいかに防ぐかという問題を例に挙げて,法的規制とインセンティブに働きかける制度設計の連携について考えたいと思います。

さて,いま政策や制度をデザインする立場にある人が,何らかの目標を達成するための制度設計を考えているとします。このとき動機付け(インセンティブ)には大きく分けてアメとムチがありますね(内発的動機等の論点は,今はとりあえずおいておきます)。

ムチとしての代表は法的な規制と,それに伴う罰則です。しかしこれだけでは不十分な場合も多く見られるため,誘導したい行為や結果を得るためにインセンティブ制度(アメ)を併用することが重要となります。

以下では,例としてタバコの吸い殻のポイ捨て防止を考えることにします。どうすればポイ捨てを減らすことができるのでしょうか。役所の担当者の気持ちになって考えてみましょう。

まず「ポイ捨てかっこわるい」といったキャンペーンを行うこと,また法律で直接的に規制することなどが考えられます。ここで規制する場合には,どう取り締まるかが問題となるでしょう。似ているような気がする問題として,自動車の路上駐車取り締まりがありますが,こちらは比較的取り締まりが容易です。なぜなら路上駐車とは車を置いて一定時間離れることなので。

しかし同様にポイ捨てを取り締まる担当者を少しくらい街に配置しても意味はないのではないでしょうか。それは,ポイ捨てをする人は取り締まる人の目の前では捨てないと思われるからです。捨てるなら誰も見ていないタイミングを見計らって捨てるはずですね。

ここで摘発が難しいからといって,罰則を強化しすぎても弊害があります。例えばタバコのポイ捨てを見つかったら罰金100万円といった制度を導入したら何が起こるでしょうか。このとき,ポイ捨てを見つけた取り締まり係と捨てた人との間での裏取引が起こる可能性がありますね。例えば,見つかった人が「1万円あげるから見なかったことにしてね」と取り締まる人に提案するかもしれません。しかしもっと問題なのは,取り締まり係の方が,何もしていない人に難癖をつける場合です。「お前今捨てただろう。罰金100万円だ。それがいやなら俺に10万払え」とかいわれるのは困りますね。怖くて街を歩けません。

このように防ぎたい行為を直接的に禁止して罰則を設けても実効性がない,または弊害が大きそうな場合には,どうすればよういのでしょうか。このときインセンティブに働きかける方法を経済学者は考えるわけです。例えば吸い殻にデポジットを設定してはどうでしょうか。タバコ一本あたり100円のデポジットを販売時に徴収し,吸い殻を20本分集めて販売店に持っていくと2000円返金されるといった制度を導入するのです。

誰も財布の中の100円玉を街にばらまかないですよね。同様に吸い殻をポイ捨てしなくなります。そしてこの制度には,さらに巧妙な仕掛けがあるのです。それは仮に酔っぱらった等の理由でポイ捨てをする人がいたとしても,道で吸い殻を見つけた人がそれを拾って換金しようとすることです。結果として街はきれいになるでしょう。

この施策には当然考慮すべき点はあります。両切りのピースはどうするんだというのは置いておいて,まずは費用です。この制度を運用するためには吸い殻の回収をする窓口を設定するなど費用がかかります。またいちいち吸い殻を店に持っていくこと自体にも費用もかかりますね。それだけではありません。例えば海外から吸い殻だけ輸入されて換金されることへの対策も考える必要があります。これを防ぐにはフィルターにチップ等を埋め込むとかが必要になるのでしょうか。他にどんな問題があるでしょう?考えてみてください。

いずれにせよ,設定した政策目的に対して,規制と罰則の効果と限界を理解し,他に組み合わせられる制度がないかを検討することは政策分析の基本なのです。そして想定できる限りありとあらゆる手法について考察し,ベストのものを選びましょう。このとき規制だけで十分なケースもあるでしょうし,他の施策との組み合わせが有効かもしれません。

さて問題です。ここであげたデポジット制以外にどんな制度が候補として想定できますか?考えてみてください。たとえばタバコ自体を完全に販売輸入禁止にするというのも一案ですね。

ちなみに,事前にさんざん考えたのに,結果として予想外の結果になりうまく行かないことも起こるかもしれません。しかしそれはそれで仕方ないのです。検討の段階でも費用対効果をよく考えるべきですから。検討段階で100%を目指しても,100%にはならないかもしれませんし,なっても遅すぎる可能性があります。HIVの画期的な新薬があっても認可に時間をかけすぎていたら結果として救えた命が失われるかもしれません。何事も比較考量が大切ですね。

というわけで,人々の何らかの行為を防ぎたい場合には,直接的な規制やインセンティブに働きかける制度設計,そしてその併用を考えることが有用なのです。

2011年1月10日月曜日

新年のごあいさつ

【以下はTwitter上で連投したもののコピーです】

あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。さて昨年12月27日に神戸労働法研究会に参加しました。大内伸哉先生のblogに,当日の内容がまとめられているので紹介します。
http://souchi.cocolog-nifty.com/blog/2010/12/post-5c3e.html

神戸では,まず石田信平さんによる報告を聞きました。仕事の位置づけとして,単に生活の糧を得るための手段と考えるのか,それとも社会参画や自己実現に欠かせないものであるため「公正」であることが求められるのかといった点からの議論が主に展開されました。

しかし私は,社会参画や自己実現を安易に仕事に結びつけることに問題があるように思います。おそらく現状では,一定以上の資産がある場合などを除けば,働かなければ生活できないからこそ仕事に社会参画や自己実現がリンクされる傾向があるのではないでしょうか。

最近,石油に似た油を効率的に生み出せる藻が発見されたそうです。仮に我が国がこの技術により非常に豊かになって,国民一人当たり毎月100万円のベーシックインカムが払えるようになったとしましょう。この場合でも仕事は自己実現のために必要と言えるのでしょうか。

さて,私は退職後の競業避止義務についての理論分析を報告しました。その際に,主張の骨子と強調したいトレードオフの関係などを先に理論モデルなしで説明しました。その上でなぜ経済学者は,このような主張をわざわざ理論モデルを使って表現するのかについても解説しました。

なぜ言葉でも説明可能なトレードオフの関係や政策的含意などを数式やモデルを用いて表現するのでしょうか。それは日常言語で詳細な場合分けや論理的帰結の検討をするのが難しいからです。

数学を使うから難しいというのは誤解で,(日常言語で考察するのが)難しいから数学を使うのです。その意味では,日常言語により詳細な検討を行っている法学者を私は尊敬しています。法学者もいろいろなので,全員を尊敬しているわけではありませんが(笑)

多くの労働法学者は,「経済学者は,もっと実際の法律や制度,そして紛争の実態を知るべきだ」と考えているのではないでしょうか。一方で経済学者は,「労働法学者は,規制の波及効果や,紛争にはならない通常の企業行動をもっと知るべきだ」と考えているように思います。

私の報告に対しても,実際の紛争や法制度に関する様々なコメントを頂きました。今後,法学と経済学の相互理解が進めば学問として楽しいだけでなく,真に労働者のためになる制度設計についてのより有益な議論できるようになるはずです。というわけで,また法学者の研究会に参加したいと思います。