2011年2月4日金曜日

不確かな少人数学級の効果 学力調査での実証必要

【日本経済新聞 経済教室 2010年9月17日】

文部科学省の中央教育審議会初等中等教育分科会が7月12日に公表した報告書案では,小中学校の1クラスあたりの人数の上限を引き下げること,それに伴い教職員の数を増やすことなどが提言されている。この少人数化が仮に実現すれば,1980年度に1クラス45人から40人へ引き下げて以来およそ30年ぶりのことになる。

クラスの少人数化は,一見すると児童生徒にとって良いことのように思える。例えば教師の目が届きやすくなるし児童生徒の発言の機会も増える等のメリットがあるからだ。このような混雑の緩和による正の効果は「クラスサイズ効果」とよばれている。しかし教科学習の達成度に関する実証研究では,予想に反してクラスサイズ効果が有意には観察されないか,観察されたとしても非常に小さいという結果が多く得られている。このことは「クラスサイズパズル」と呼ばれ,これまで経済学者の間でも議論の対象となってきた。本稿ではこのような少人数学級に関する研究の概要を紹介するとともに,教育をより良くするための施策について検討したい。

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少人数学級が学習面の達成度を向上させるか否かを分析する際に,規模の違うクラスで学んでいる子どもたちの成果を単純に比較するわけにはいかない。学級規模以外の要因が成果に与える影響を排除できないからだ。例えば地域によって制度が違うときに,教育熱心な家庭が少人数学級の地域を選んで居住しているなら,仮に少人数学級の方が高い成果を上げたとしても,少なくともその一因は親が教育熱心なことにあるといえるだろう。このとき単純比較だと少人数学級の効果が過大評価されることになる。

学習が困難な子どもたちを教育する場合には行政が少人数学級を採用するが,成績の良い子どもたちには採用しない場合はどうだろうか。このとき実際には少人数教育に良い効果があったとしても,人数が多い方が成果が高いという逆の結果が観察されてしまうかもしれない。

それではどうすれば正確に効果を測定できるだろうか。有力な手法の一つは,管理された実験を行うことである。例えば米国テネシー州で85年に始められた「STARプロジェクト」は,入学時の能力や家庭環境などが同程度の分布になるようにランダムに入学者を配置し,達成度に違いがあるかを検証する実験であった。別の手法として,自然実験の活用がある。これは例えば通学区域指定がある公立学校に注目して,入学する児童生徒数の年による変動とそれに伴う学級人数の変化を用いて達成度への影響を検証しようとするアプローチなどを指している。

これらの手法を用いた研究により,予想に反してクラスサイズ効果が有意には観察されない,また観察されたとしても非常に小さいという先述の結論が得られたのである。

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混雑緩和効果があるにも関わらず,少人数学級のメリットが観察されにくいのはなぜか。まず少人数学級には,クラス内での競争を通じた切磋琢磨(せっさたくま)が損なわれてしまう可能性がある。

筆者は2004年に公表した研究において,学級規模を小さくすると,能力が低い子どもの学習意欲が増加する代わりに,能力が高い子どもの努力が低下する効果が存在することを発見し,後者の効果の方が前者よりも大きいことを理論的に示した(ただし,能力別ではない学級編成の下で,成績がクラス内の相対評価により付けられている場合を分析した)。つまり少人数化には,格差を縮小させる一方で平均的な達成度を低下させてしまう可能性がある。

先ほどの混雑緩和効果とこの競争抑制効果を併せて考えると,図の実線で表されているように,クラスの人数と教育の成果には逆U字の関係があることが予想される。このとき達成度の面だけから見た最適なクラスサイズは図のnとなる。一方で少人数学級の方が児童生徒一人当たりの費用が大きくなることを図の点線により表すと,費用対効果で考えた最適なクラスサイズはmとなる。この最適規模はnよりも大きく,また児童生徒の能力や教師の力量によっても当然変化する。

別の説明も可能だ。例えばSTARプロジェクトのような実験の際にクラスの数を急に増やすと,必要な教師の数が増えるために新規採用が行われるだろう。それにより教師の平均的な質や経験年数が低下するなら,このことによってクラスサイズパズルが説明できるかもしれない。

仮に新人教師の経験不足が原因であるなら,制度の導入時に注意すればよい。例えば現在の40人学級を分けて20人学級を2つ作る(このとき教員は2人必要で1人は新人になる)よりも,当分の間は40人学級のままでクラスに配置する教員を2人にした方が効果的かもしれない。この場合も必要な教員は2人だが,新人が単独でクラスを担当することはなくなるからだ。

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少人数学級の導入には,このように学業面の効果を疑問視する研究結果もある。しかし運用で改善できる余地があること,また個々の生活面の指導が行き届くようになるといった点から賛成意見が多いことも踏まえて,この施策を仮に採用するならどんな点に注意すべきかを議論したい。

最重要なのは,児童生徒へのアンケート調査と全国的な学力調査を併用した事後評価が行われることである。まずアンケート調査は匿名で第三者が行う。社会調査において本音をどの程度引き出すことができるかという限界を認識することは基本だが,記名式では本音を引き出すのが難しいと思われるからだ。

例えば,児童生徒とその保護者に対するアンケートを考えてみよう。教師の理解度や教え方について調査しても,何らかの仕返しをされる可能性があれば児童生徒は不満を述べないだろうし,子どもを“人質”に取られている状況下では保護者も不満を表明しにくい。必要なのは個人が特定されずに問題点が指摘され学習環境が改善されることである。しかし少人数学級では誰の不満なのかを教師が特定しやすくなってしまうためこれには限界がある。

そこでデータに基づく事後評価が重要となる。どの段階でどの教科の勉強がなぜ分からなくなるのか,またそれは教師の質が低いからなのか,それともクラスが混雑しているからなのかといった点を把握できれば有用であり,そのためにも全国的な試験による詳細な成果把握が行われるべきだ。その際に,以前実施された学力調査において一部の学校で見られたような教師による不正を防ぐためにも試験監督は他校の教員や外部の人間が担当すべきである。教育に政府がお金を使うなら同時にその事後評価にもきちんとお金を使うべきであり,問題が見つかれば適宜方針転換を図ることこそが必要なのだ。

児童生徒のために,そして社会全体のために教育をより良いものにするには,インセンティブ(誘因)設計の手法が欠かせない。教師の善意に頼るのではなく,教育の質を上げるための様々な手法とその組み合わせを検討し,費用と効果を勘案して最善のものを選ぶ必要がある。ただし事前によく分からないことも多い。そこで複数の異なるプランを実際に採用して比較する社会実験が有益となる。

わが国では社会実験に対する抵抗が強い。例えば人種間の達成度の差を縮めることを目的にハーバード大学のフライヤー教授が最近行った実験では,子どもに対して学習の金銭的動機付けをしてその効果を観察している。このような実験は感情的な反発を買うものかもしれないが,政策評価のための学問的取り組みに対する理解が求められる。

機動的な政策決定のためには政府の失敗をたたき過ぎないことも大事かもしれない。事前の段階で適切な判断がなされていたのであれば事後的に問題が発生しても許容すべきだろう。失敗したらたたかれることが分かっていれば,新たな政策導入に社会的な最適水準よりも高いハードルを課すことになり,時代の変化に合わせて行うべき方針転換が抑制されてしまうからである。


2011年2月2日水曜日

情報発信のメリット(濱口さんと労務屋さんのBlogを読んで)

前回の私のBlog記事に関して,濱口桂一郎さんが自身のBlogにおいて言及されているのを見つけました。その内容は,労働政策が中小企業に対して長期雇用を「強制」しようとしたという僕の記述は間違いですよというものでした。

確かにその通りで,強制したわけではありませんね。ここは「誘導しようとして失敗した」といった表現にしておけば適切だったのでしょう。

それでは本当に誘導していたのかという疑問を持つ方もいるかもしれないので,簡単に私の考えを説明しておきます。まず日本の労働政策は長い間,三者構成とされる労政審において議論されて合意に至った内容だけが実質的に法律になるという状況が続いていました。そこで問題となるのが,審議会に参加する労使の代表が,本当にすべての労働者(失業者などの現在働いていない人や非正規の労働者も含む)とすべての使用者(中小零細企業の経営者なども含む)を代表していたのか否かです。

この点に関してよく指摘されるのは,実質的には,審議会において大企業の労働者や組織化された労働者の代表と大企業の経営者の代表の声が,最終的な合意形成に反映されやすかったという問題です。

もちろん審議会メンバーたちは多様な当事者たちの意見を聴取していたでしょうが,最終的には自分たちの利益を最大にするために行動したとするなら,わが国の労働法が大企業に適合性の高いものとなってしまう可能性が高いわけですね。このとき意図しない形ではあっても,中小企業に対する大企業型人事制度への誘導があったと言えるのではないでしょうか。

また労政審のメンバーを誰が選んでいたのかについても考える必要があります。政治が選んでいるのか,それとも実質的には行政が選んでいるのかにもよりますが,もしかしたら日本の大企業で見られる雇用慣行を正しいものとして,中小にもこれを普及させようという意図があって,労使の代表が意図的に選ばれていたのかもしれません。この場合は誘導があったといえますね。他方で労使の代表として単に大きくて目につきやすい,また声の大きい組織の代表を選んでおけばそれで間違いないだろうと考えていたとするなら,この場合は意図しなかったが結果的に「誘導」する形になっていたといえるでしょう。

次に,昨日付けの労務屋さんのBlogでは,私がαSYNODOSというメールマガジン(2月1日配信分)向けに書いた記事について,高知放送事件に関して誤解を生みかねない表現があるとして丁寧な説明をされています(ちなみに当該メルマガの私の記事の次に,労務屋さんの記事もあります)。

私としては「普通解雇について争われた高知放送事件の概要ですが」という表現をしたことで,ここで書かれたことがすべてではなく,あくまで「概要」ですよと言ったつもりでした。しかし確かに労務屋さんのおっしゃるように,ここだけを読んだ人は「日本ではやはり解雇はとても難しいなあ」とか「裁判所は労働者の味方なのだなあ」という印象を強く持ってしまう懸念があります。メルマガの内容を後日どこかに転載できる機会があれば,その際には労務屋さんの当該記事へのリンクを張っておきたいと思います。

濱口さんのBlogも労務屋さんのBlogも,雇用労働問題の研究者や実務家の間では広く読まれているものですね。このようなところで私の誤解や表現の足りないところ等を指摘していただけるのは,とてもありがたいことです。お二方に感謝したいと思います。

今回のようなコメントを頂いて,このように専門家から無料で教えてもらえるということは,情報発信することのメリットだと実感しました。自分で考えているだけでは,誤解に気づきませんからね。もちろん間違いのない記述と表現を追求するのは当然のことですので,今後とも日々精進します。それでは。