2011年2月4日金曜日

不確かな少人数学級の効果 学力調査での実証必要

【日本経済新聞 経済教室 2010年9月17日】

文部科学省の中央教育審議会初等中等教育分科会が7月12日に公表した報告書案では,小中学校の1クラスあたりの人数の上限を引き下げること,それに伴い教職員の数を増やすことなどが提言されている。この少人数化が仮に実現すれば,1980年度に1クラス45人から40人へ引き下げて以来およそ30年ぶりのことになる。

クラスの少人数化は,一見すると児童生徒にとって良いことのように思える。例えば教師の目が届きやすくなるし児童生徒の発言の機会も増える等のメリットがあるからだ。このような混雑の緩和による正の効果は「クラスサイズ効果」とよばれている。しかし教科学習の達成度に関する実証研究では,予想に反してクラスサイズ効果が有意には観察されないか,観察されたとしても非常に小さいという結果が多く得られている。このことは「クラスサイズパズル」と呼ばれ,これまで経済学者の間でも議論の対象となってきた。本稿ではこのような少人数学級に関する研究の概要を紹介するとともに,教育をより良くするための施策について検討したい。

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少人数学級が学習面の達成度を向上させるか否かを分析する際に,規模の違うクラスで学んでいる子どもたちの成果を単純に比較するわけにはいかない。学級規模以外の要因が成果に与える影響を排除できないからだ。例えば地域によって制度が違うときに,教育熱心な家庭が少人数学級の地域を選んで居住しているなら,仮に少人数学級の方が高い成果を上げたとしても,少なくともその一因は親が教育熱心なことにあるといえるだろう。このとき単純比較だと少人数学級の効果が過大評価されることになる。

学習が困難な子どもたちを教育する場合には行政が少人数学級を採用するが,成績の良い子どもたちには採用しない場合はどうだろうか。このとき実際には少人数教育に良い効果があったとしても,人数が多い方が成果が高いという逆の結果が観察されてしまうかもしれない。

それではどうすれば正確に効果を測定できるだろうか。有力な手法の一つは,管理された実験を行うことである。例えば米国テネシー州で85年に始められた「STARプロジェクト」は,入学時の能力や家庭環境などが同程度の分布になるようにランダムに入学者を配置し,達成度に違いがあるかを検証する実験であった。別の手法として,自然実験の活用がある。これは例えば通学区域指定がある公立学校に注目して,入学する児童生徒数の年による変動とそれに伴う学級人数の変化を用いて達成度への影響を検証しようとするアプローチなどを指している。

これらの手法を用いた研究により,予想に反してクラスサイズ効果が有意には観察されない,また観察されたとしても非常に小さいという先述の結論が得られたのである。

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混雑緩和効果があるにも関わらず,少人数学級のメリットが観察されにくいのはなぜか。まず少人数学級には,クラス内での競争を通じた切磋琢磨(せっさたくま)が損なわれてしまう可能性がある。

筆者は2004年に公表した研究において,学級規模を小さくすると,能力が低い子どもの学習意欲が増加する代わりに,能力が高い子どもの努力が低下する効果が存在することを発見し,後者の効果の方が前者よりも大きいことを理論的に示した(ただし,能力別ではない学級編成の下で,成績がクラス内の相対評価により付けられている場合を分析した)。つまり少人数化には,格差を縮小させる一方で平均的な達成度を低下させてしまう可能性がある。

先ほどの混雑緩和効果とこの競争抑制効果を併せて考えると,図の実線で表されているように,クラスの人数と教育の成果には逆U字の関係があることが予想される。このとき達成度の面だけから見た最適なクラスサイズは図のnとなる。一方で少人数学級の方が児童生徒一人当たりの費用が大きくなることを図の点線により表すと,費用対効果で考えた最適なクラスサイズはmとなる。この最適規模はnよりも大きく,また児童生徒の能力や教師の力量によっても当然変化する。

別の説明も可能だ。例えばSTARプロジェクトのような実験の際にクラスの数を急に増やすと,必要な教師の数が増えるために新規採用が行われるだろう。それにより教師の平均的な質や経験年数が低下するなら,このことによってクラスサイズパズルが説明できるかもしれない。

仮に新人教師の経験不足が原因であるなら,制度の導入時に注意すればよい。例えば現在の40人学級を分けて20人学級を2つ作る(このとき教員は2人必要で1人は新人になる)よりも,当分の間は40人学級のままでクラスに配置する教員を2人にした方が効果的かもしれない。この場合も必要な教員は2人だが,新人が単独でクラスを担当することはなくなるからだ。

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少人数学級の導入には,このように学業面の効果を疑問視する研究結果もある。しかし運用で改善できる余地があること,また個々の生活面の指導が行き届くようになるといった点から賛成意見が多いことも踏まえて,この施策を仮に採用するならどんな点に注意すべきかを議論したい。

最重要なのは,児童生徒へのアンケート調査と全国的な学力調査を併用した事後評価が行われることである。まずアンケート調査は匿名で第三者が行う。社会調査において本音をどの程度引き出すことができるかという限界を認識することは基本だが,記名式では本音を引き出すのが難しいと思われるからだ。

例えば,児童生徒とその保護者に対するアンケートを考えてみよう。教師の理解度や教え方について調査しても,何らかの仕返しをされる可能性があれば児童生徒は不満を述べないだろうし,子どもを“人質”に取られている状況下では保護者も不満を表明しにくい。必要なのは個人が特定されずに問題点が指摘され学習環境が改善されることである。しかし少人数学級では誰の不満なのかを教師が特定しやすくなってしまうためこれには限界がある。

そこでデータに基づく事後評価が重要となる。どの段階でどの教科の勉強がなぜ分からなくなるのか,またそれは教師の質が低いからなのか,それともクラスが混雑しているからなのかといった点を把握できれば有用であり,そのためにも全国的な試験による詳細な成果把握が行われるべきだ。その際に,以前実施された学力調査において一部の学校で見られたような教師による不正を防ぐためにも試験監督は他校の教員や外部の人間が担当すべきである。教育に政府がお金を使うなら同時にその事後評価にもきちんとお金を使うべきであり,問題が見つかれば適宜方針転換を図ることこそが必要なのだ。

児童生徒のために,そして社会全体のために教育をより良いものにするには,インセンティブ(誘因)設計の手法が欠かせない。教師の善意に頼るのではなく,教育の質を上げるための様々な手法とその組み合わせを検討し,費用と効果を勘案して最善のものを選ぶ必要がある。ただし事前によく分からないことも多い。そこで複数の異なるプランを実際に採用して比較する社会実験が有益となる。

わが国では社会実験に対する抵抗が強い。例えば人種間の達成度の差を縮めることを目的にハーバード大学のフライヤー教授が最近行った実験では,子どもに対して学習の金銭的動機付けをしてその効果を観察している。このような実験は感情的な反発を買うものかもしれないが,政策評価のための学問的取り組みに対する理解が求められる。

機動的な政策決定のためには政府の失敗をたたき過ぎないことも大事かもしれない。事前の段階で適切な判断がなされていたのであれば事後的に問題が発生しても許容すべきだろう。失敗したらたたかれることが分かっていれば,新たな政策導入に社会的な最適水準よりも高いハードルを課すことになり,時代の変化に合わせて行うべき方針転換が抑制されてしまうからである。


2011年2月2日水曜日

情報発信のメリット(濱口さんと労務屋さんのBlogを読んで)

前回の私のBlog記事に関して,濱口桂一郎さんが自身のBlogにおいて言及されているのを見つけました。その内容は,労働政策が中小企業に対して長期雇用を「強制」しようとしたという僕の記述は間違いですよというものでした。

確かにその通りで,強制したわけではありませんね。ここは「誘導しようとして失敗した」といった表現にしておけば適切だったのでしょう。

それでは本当に誘導していたのかという疑問を持つ方もいるかもしれないので,簡単に私の考えを説明しておきます。まず日本の労働政策は長い間,三者構成とされる労政審において議論されて合意に至った内容だけが実質的に法律になるという状況が続いていました。そこで問題となるのが,審議会に参加する労使の代表が,本当にすべての労働者(失業者などの現在働いていない人や非正規の労働者も含む)とすべての使用者(中小零細企業の経営者なども含む)を代表していたのか否かです。

この点に関してよく指摘されるのは,実質的には,審議会において大企業の労働者や組織化された労働者の代表と大企業の経営者の代表の声が,最終的な合意形成に反映されやすかったという問題です。

もちろん審議会メンバーたちは多様な当事者たちの意見を聴取していたでしょうが,最終的には自分たちの利益を最大にするために行動したとするなら,わが国の労働法が大企業に適合性の高いものとなってしまう可能性が高いわけですね。このとき意図しない形ではあっても,中小企業に対する大企業型人事制度への誘導があったと言えるのではないでしょうか。

また労政審のメンバーを誰が選んでいたのかについても考える必要があります。政治が選んでいるのか,それとも実質的には行政が選んでいるのかにもよりますが,もしかしたら日本の大企業で見られる雇用慣行を正しいものとして,中小にもこれを普及させようという意図があって,労使の代表が意図的に選ばれていたのかもしれません。この場合は誘導があったといえますね。他方で労使の代表として単に大きくて目につきやすい,また声の大きい組織の代表を選んでおけばそれで間違いないだろうと考えていたとするなら,この場合は意図しなかったが結果的に「誘導」する形になっていたといえるでしょう。

次に,昨日付けの労務屋さんのBlogでは,私がαSYNODOSというメールマガジン(2月1日配信分)向けに書いた記事について,高知放送事件に関して誤解を生みかねない表現があるとして丁寧な説明をされています(ちなみに当該メルマガの私の記事の次に,労務屋さんの記事もあります)。

私としては「普通解雇について争われた高知放送事件の概要ですが」という表現をしたことで,ここで書かれたことがすべてではなく,あくまで「概要」ですよと言ったつもりでした。しかし確かに労務屋さんのおっしゃるように,ここだけを読んだ人は「日本ではやはり解雇はとても難しいなあ」とか「裁判所は労働者の味方なのだなあ」という印象を強く持ってしまう懸念があります。メルマガの内容を後日どこかに転載できる機会があれば,その際には労務屋さんの当該記事へのリンクを張っておきたいと思います。

濱口さんのBlogも労務屋さんのBlogも,雇用労働問題の研究者や実務家の間では広く読まれているものですね。このようなところで私の誤解や表現の足りないところ等を指摘していただけるのは,とてもありがたいことです。お二方に感謝したいと思います。

今回のようなコメントを頂いて,このように専門家から無料で教えてもらえるということは,情報発信することのメリットだと実感しました。自分で考えているだけでは,誤解に気づきませんからね。もちろん間違いのない記述と表現を追求するのは当然のことですので,今後とも日々精進します。それでは。

2011年1月28日金曜日

澤井さんへの返信(その2)

丁寧なお返事をいただきありがとうございます。「経済学者vs弁護士の雇用規制緩和に関する議論に絡んでみた(その2)」を拝読して,自分の説明が足りなかったところと澤井さんが心配されている論点とが明確になり,とても感謝しています。

まず説明不足だったと思われる点は,大きく分けて次の4点です。

  1. まず私が提案している労働ルールの変更を,私は「解雇規制の緩和」であるとは考えていません。例えば既存の契約については,これまで不明確で予測が難しかった整理解雇の要件を合理化・明確化すべきだと私は主張していますが,これは中期雇用導入の有無とは関係なく,合理化・明確化が労使双方の利益になるものだと思うからです。当然,この取り組みによっても,これまでの約束を使用者側が何の制約もなく一方的に反古にすることが認められるわけではありません。
  2. また私は中期雇用を可能にすることも主張していますが,これは「原則3年までの短期か定年までの長期かという極端な二択に,契約が限定されていること」を崩すのが目的です。よって新規契約に関しても,個々の契約において解雇しないという約束がなされた範囲では,雇用保障が依然として実効性を持ちます。
  3. さらに重要だと考えている変更点は,長期雇用に関する雇用保障の構造をこれまでよりも明確なものにすることです。俗に終身雇用と呼ばれる定年までの長期雇用は,現時点では期限の定めのない雇用契約と整理解雇法理により実質的に実現されています。これに対して今後は,定年までの片務的な長期雇用保障契約を労使が結ぶ場合でも,明示的な期間を定めた契約を締結すべきだと考えています。これは例えば大学新卒の22歳の人に対して,企業が65歳の定年時までというおよそ44年契約を明示的に提示するということです。しかし,これだけ長期の契約となると環境の変化等への対応が不可欠でしょう。よっておそらく長期雇用の場合には,労働条件の変更による待遇悪化の可能性,また分社化や他社への部門譲渡の可能性,そして整理解雇が行われるとしたらどのようなときかという要件等を可能な範囲で明示する特約が付くことになると思われます。そして予測できなかった事態への対応については誠実な交渉義務を課すといった条項も含まれることになるでしょう。
  4. さて,そもそもこれまでのわが国の労働政策は,極端な言い方をすれば,高度成長期に大企業でたまたま発生して上手くいったように見えた労働慣行を,中小企業にまで強制しようとして失敗した歴史とは考えられないでしょうか。おそらく中小企業においては,実現不可能な労働ルールを守るように言われて,実際には無理だと労使が判断して無視していたというのがこれまでの実態でしょう。つまり現在まで,中小企業の労働者は実質的には保護されていない状態だったのです。そこで前回申し上げたように,守れるルールにするかわりにきちんと守らせることが重要だと考えています。

私が述べている案に対して,澤井さんが様々な心配をなさるのは当然のことです。上記のように様々な不具合もあるものの,これまでとりあえずは機能してきた制度に手を加えることにより,現状と比較して全員が損する可能性さえもあるからです。よって労働を取り巻く関係者の全員が理解し納得した上で,100%確実とは言わないまでも「まあやってみても良い」と考える合意形成が必要です。そのために必要となる取り組みは,ルール変更を提案する側に課された責務であるとも言えるでしょう。

そこで最近,私は労働法学者の野川忍さんと共同で雇用労働問題を議論するBlogを始めました。野川さんとの質疑応答を通じて,これからの労働ルールのあり方についての私の考え方と論拠を今後さらに明確にしていくつもりでいます。

それが一段落した上で,澤井さんから頂いたコメントや疑問点のどれに答えられていて,またどこは回答が不十分なのかをはっきりさせたいと思います。というわけで申し訳ありませんが,もう少し時間を頂ければありがたいです。

今後ともどうぞよろしくお願いします。

2011年1月23日日曜日

澤井和彦さん(ks736877)へのお返事

このエントリは澤井さんのBlog記事
(http://xxx-phere.cocolog-nifty.com/beobachtungen/2011/01/post-2382.html)
に対してのコメントです。Twitterへの連投を避けるためにこちらに書くことにしました。よってまずは澤井さんのBlog記事を先にご覧ください。


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澤井さん,

こんにちは。Blogを拝見しました。長期雇用を考える際に,他の制度との関係をもっと考慮せよとの意見には同意します。しかし細かい点ではいろいろと疑問やコメントしたいことがあります。例えば「労働者は選択できず逆に企業にいいように利用されてしまう」といった表現や中小企業における長期雇用の実態認識等には疑問を持ちました。

まずは守(ら)れないルールについてです。そのようなものは意味がないだけでなく,恣意的な摘発が可能になるため,はっきり言って害悪であると思います。この点については再度議論します。

次に「いいように利用されてしまう」という表現についてです。問題のある人や行為が,労使双方に現実に存在していることは承知していますが,ルールの範囲内での行為を糾弾するような書き方だと冷静な議論が成立しない恐れがあるため望ましくないと思います。

おそらく経済学者の発想では,何らかの好ましくない行為が実際に観察された場合に,それを引き起こした人物を糾弾するのではなく,それを防ぐように誘導できなかった制度設計の問題として捉えることが一般的だと思います。

例えば労働に関するトラブルが発生したとするなら,まずなぜそれを防げなかったのかを私なら考えます。その上で,制度設計のミスが原因なら修正を検討しますし,防ぐことのコストが大きすぎたために「あえて防がなかった」のであれば,定められた罰則を淡々と課すしかありません。

僕がよく例に使うのは自動車事故による死傷者のケースです。まず事故を起こせば相応のペナルティーが課されますね。そして速度制限等の行為規制,自動車の安全基準やガードレールの整備などを総合的に利用して政策目標を達成しようとするのが現実的です。

そしてそれでも防げない事故が発生したとき,被害者側の感情も分かりますが,加害者を過度に糾弾するのではなく再発防止のために何が出来るかを考える方が建設的だと思うのです。もちろん最適な対策は,時代の変化や技術進歩によっても変化するので定期的な見直しが必要ですね。

続いて「雇用の流動化などはすでに長期雇用の条件を満たせなくなりつつある中小企業で構造的に起こっている」との記述がありましたが,端的に言えば事実誤認かと思います。中小ではそもそも長期雇用が例外的であったと捉えるべきではないでしょうか。例えば以下のページをご覧ください。
http://www.chusho.meti.go.jp/pamflet/hakusyo/h17/hakusho/html/17321400.html

また私が中期雇用も許すべきだとしている点について,澤井さんは大規模な制度変更だと捉えられているようにお見受けしますが,私はそうは考えてはいません。変更後も,おそらく大企業では長期雇用が続くと思いますし,これまで実質的に長期雇用ではなかった中小企業の労働者に関しては,現状を追認するというだけではなく「守れるルールになったのだからきちんと守らせる」ことが可能となると理解しています。

また交通事故の例に戻るなら,例えば高速道路で時速100キロメートルまでという速度制限に違反したとして摘発されたときに,現状では「運悪く取り締まりに引っかかった。今度は捕まらないように注意しよう」というような認識を持つドライバーが結構多く存在しているのではないでしょうか。しかし速度制限を実態に合わせて少し緩める代わりに取り締まりを厳格化することで,皆が新しいルールを守るようになれば,結果として現在よりも事故が減るのではないかと私は考えています。

これを労働の話に適用すると,守れるルールであり,かつ本当に守らなければならないルールとすることで,労働基準監督署による取り締まりにも一層の正統性が認められるのではないでしょうか。現状では,労働者が使用者の行為に不満を持っても「他もこんなものだろうな。訴え出ても得しないだろうな」と考えてしまう可能性があるのに対して,このラインを超えたら必ずアウトという線引きを明確にすることは,とても有用なことだと思います。

最後に小倉さんとの会話についてです。そもそも「説得」とは,相手に伝わる語りかけでなくては意味がありません。まあ京極夏彦の小説に出てくる京極堂の「憑物落し」のようなものですね。例えば僕が池田信夫さんと会話した記録のtogetter (http://togetter.com/li/90352) をご覧いただければ,相手に伝わるように注意深く言葉を選んでメッセージを投げていることがご理解いただけると思います。

これに対して小倉さんとのやり取りでは,もっと彼に伝わる言葉が別にあるはずなのに,それを選ばずに次々と「いかにも経済学者的な言葉」を投げつけているという意味において,私に非があることは認識しています。これは小倉さんからのメッセージが千本ノックのように次々と飛んでくるので言葉を選んでいる暇がないというのもありますが,このような乱闘をやると多くの人が面白がって見てくれるため,労働問題への関心が高まるという効果も少しは期待していたりします。まあ投げかけられる言葉への適切な対応が出来ていないという観点からは私の処理能力不足の問題であり,「関心が高まる」などと言うのは後付けの言い訳にしか聞こえないかもしれませんね。

私としては澤井さんから頂いたコメントだけでなく小倉さんからのツイート等も含めて,自分が長い間考えてきた今後の労働ルールのあり方について,どこが分かりにくくて誤解されやすいのかを理解する,そしてもちろん考え方自体に問題があれば修正するためにとても役に立っていると思い,皆さんに感謝しています。今後ともコメントをいただけること,また建設的な議論が出来ることを楽しみにしています。

コメントを頂き,ありがとうございました。

安藤至大


2011年1月17日月曜日

差別の経済分析

前回,差別をなくすためにはどのような施策が必要なのかという問題を議論し始めました。その際に重視したいのは,単純に差別行為を禁止すればそれで問題が解決するとは限らないため,様々な手段を組み合わせることが必要であるという視点です。また何らかの差別是正措置を採用したら事後評価を必ず行うことも重要だと考えています。

そもそも経済学における差別研究は,1950年代から始まりました。1957年にBeckerの有名な著書が出版され,嗜好に基づく差別が経済学の分析対象として初めて俎上に上ったのです。また1973年のArrowの論文などをきっかけとして統計的差別の存在にも注目が集まりました。

このように差別を嗜好に基づく差別と統計的差別とに大きく分けて扱うのは,経済学では標準的です。前回の記事では,嫌いだから差別をするとか偏見があるから差別するというものではなく,ロジックとしてより興味深い統計的差別を先に採り上げたため,このエントリは「机上の空論」であるといった評価もあったようです。しかし,嗜好に基づく差別についても追々検討していきますのでしばらくお待ちいただければと思います。

さて私は,上記の二種類のもの以外にも差別する理由があると考えて,2007年頃に"Implicit reverse discrimination in firms"というタイトルの研究を始めました。そこでは,差別主義者だと思われたくない上司が,少し能力が劣るくらいならあえてマイノリティーを昇進させる可能性があるという意味での企業内の逆差別を採り上げて分析しています。しかしこれは理論的にはMorris (2001)” Political correctness”のロジックを企業内の昇進競争に当てはめただけとしか自分でも評価できないので,残念ですが,いくつかの大学で研究報告をした後にとりあえず放置してあります。おもしろい発展のさせ方ができないかと,この問題も時々考えてはいるのですが。

このように差別問題に興味がある私としては,本業に差し支えない程度に議論を進めていきたいのですが,差別の問題は表現に気を使うためか執筆に時間がかかります。よって,10日ごとくらいにポストできるように気長に進めていきたいと考えています。

それでは。

2011年1月15日土曜日

差別は,それを法で直接的に禁止すれば防げるのか(1)

さて本日は,差別をいかに防ぐかについて考えたいと思います。まず差別を統計的差別と嗜好に基づく差別に分けて議論しましょう。そして後者はさらに心底嫌いだから一緒に働くと生産性が落ちるケースと単に食わず嫌いで雇ってみたら案外良かったとなりうるケースに分けられます

1, 統計的差別
1−1,統計的差別とは何か

まずは統計的差別から見ていきましょう。統計的差別とはどのようなものでしょうか。これは人々が何らかの選択を行う際に,選択肢の事前評価を詳細にするだけの時間がなかったり能力がなかったりする場合に,選択肢が持つ属性に注目して最も平均的な評価が高いと認識されるグループの中から選ぶことなどを意味しています。

例として,定年までの長期にわたって働いてくれる若手を求めている企業が採用活動を行う場合を考えてみましょう。このとき,個別には様々なケースがあるでしょうが平均的には男性よりも女性の方が結婚や出産,また配偶者の転勤等の理由で退職する可能性が高いとするなら,この企業は男性を雇いたいと考えるでしょう。ある女性求職者が「私は結婚しても出産しても仕事は続けます」と面接で言ったとしても,実際には退職してしまうかもしれません。

正規雇用の労働者が離職してしまうことを防ぐ手だてには,例えば年功序列賃金の導入や勤続年数により退職金を大きく変えることなどがあります。これらは給料から強制的に社内預金をさせられて,労働者側からの離職の場合には返してもらえない制度と理解することができます。

しかしこの社内預金を放棄しさえすれば,実質的には離職は自由です。このとき女性の求職者が離職しないことにコミット(確約する)ことができないことが採用されない理由といえます。これは嫌いだから差別をしているのではなく,単に企業が平均的に見て有利な選択をしているだけですね。

別のパターンも見ておきましょう。ここでは人気が高い企業の人事部が誰を面接試験に呼ぼうか考えているケースを想定します。有名大学の学生とそうでない学生を比べたときに,有名大学にも出来の悪い学生がいるでしょうし,そうでない大学にも優秀な学生はいますね。しかし平均的に見れば有名大学の方が優秀な人が多いと企業が認識している場合には,企業は有名大学の学生のみを面接試験に招待するかもしれません。

これも嫌いだから差別をしているのではなく,単に調査費用を節約するために採られている合理的な行動です。仮に面接を行えば誰が有能なのかを確実に判断できるとしても,2割の確率で優秀な人がいるグループではなく8割の確率のグループから選んだ方が効率的です。

1−2,外見以外はまったく同じであっても統計的差別は起こりうる

統計的差別とは,能力等にまったく差異がなくても発生しうるものです。例えば男女間に能力の差(男性の方が重いものを持てるとか)や行動の違い(寿退職をする可能性は女性の方が高い)などが全くなかったとしても起こりえるのです。

外見が赤か緑かだけの違いがある同じ人数の二つの種族があったとして,毎年企業経営者たち(これはどちらの種族でも良い)が採用活動を行う場合を考えてみましょう。ここで本当は労働者としての潜在的な能力は同じなのに,赤のほうが高いという誤った予想を経営者の一部が持っていたとします。このとき「緑は使えないので赤を多く採用したい」と考えるでしょう。

学校教育や職業訓練を受けている段階の若い人々がこの予想を知ると,行動に違いが出ます。赤は採用される可能性が高いので努力することの期待できる見返りが大きく,結果として努力します。一方で緑は,見返りが少ないので,同じ水準までは頑張りません。これは彼らにとって合理的な行動です。

このとき努力に差があるため,採用試験の時点での能力に差が生まれています。本当は潜在的能力に全く差がなくても,差があるという誤解があるだけで本当に差が生まれてしまいました。このように統計的差別とは自己実現的に起こりうるものなのです。

1−3,差別禁止法を制定するだけで統計的差別を防げるのか

さてこのような差別はどのように解消すれば良いのでしょうか。差別を直接的に禁止する法律を制定すれば,それでうまく行くのでしょうか。以下では差別禁止法の内容と役割について考えてみます。

まず法律が「能力に差がないのに色だけで差別をしてはいけない」というものであるときを考えてみましょう。これは能力に差があれば能力が高い方を採用して構わないということですね。先ほどの赤と緑のケースを引き続き考えると,人々が持つ「赤の方が優秀だ」という予想が変わらなければ,やはり努力選択に差が生まれ,結果として能力に違いがあるので,経営者にとっては赤を雇うのが合法かつ合理的行動です。差別はなくなりませんね。

では「最低でも一定割合(ただし5割未満の値)は緑を採用すること」という規制を追加したらどうなるでしょうか。罰則が十分に大きければ企業は緑をその水準まで採用するでしょうが,やはり赤の方が採用される確率が高いために努力と能力の差が生まれてしまいます。これでも差別はなくなりませんね。

このとき企業は「法律があるから仕方なく緑を雇っているけれど,本当は能力が高い赤を雇いたいなあ」と考えているのです。従って採用時の差別とは異なる別の差別が発生するかもしれません。会社にとって緑はいやいや採用させられた労働者なので「おまえは能力が低いのになぜうちの会社にいるんだ」といった視線にさらされることもあるでしょう。

それでは同数ずつ採用することを企業に義務づけたとしましょう。いま考えている設定の下では,このとき時間を通じて差別がなくなります。なぜでしょうか。

ある日を境に同数採用法が施行されると,企業は最初は能力が低い緑をいやいや雇うわけですが,それを見た次の世代は「赤緑が同じ確率で採用されるので頑張ろう!」と考えて同じ水準の努力が選択されます。よって企業が次世代を採用する段階では,経営者は「最近は赤も緑も同じだな」と考えるようになり,生来の能力に関する誤解を解くことになりました。いやあ,よかったですね。

それでは差別が解消された状況を見た政府が規制を撤廃しても問題ないのでしょうか。注意しないといけないのは,労働者が実際に働いたときに生み出す成果が彼らの能力だけで決まるのなら撤廃しても問題ありませんが,不確実性の影響を受けるときはまた差別がある状態に戻ってしまう可能性があるという点です。

ある経営者が,緑の社員が何か失敗したのを見て「やはり緑はだめだな」などと考えてしまうと,次世代の採用に影響が出ます。このとき赤緑間での採用確率が変わるので,その後の世代の努力選択に差が出てしまい,また差別のある世界に逆戻りです。つまり同数採用することを強制する法律が欠かせません。

さてここまでの話は,赤緑間で潜在能力に差がない場合を考えてきました。しかし現実は違います。例えば平均的な能力が同じでも男女間で仕事に向き不向きがありますし同性の中でも能力にバラツキがあるのが現実でしょう。また建設現場の仕事は重労働が多いので男性が多い方がうまくいくといったような,産業により最適な割合が異なることも考えられます。

以下では先ほどの赤と緑の話を用いて,種族内では能力の差がないが企業によって最適な赤緑比率が異なる場合を考えましょう。企業1にとっては赤と緑の能力が同じであるなら8:2の割合で,反対に企業2は2:8の割合で雇用するのがベストとします。このとき同数の採用を法律で強制していると,まずそのことによる生産性の低下が起こります。問題はそれだけではありません。人々の間に規制に対する不満が生まれます。赤も緑も能力は同じなのに,自分に合った仕事ができる企業への就職が阻害されているからです。

また仕事に向き不向きがある場合には,本当は赤を多く雇いたい企業で働く緑のうちの一部は「あいつは仕事ができないやつだ」と周囲から思われてしまいます。この場合にはやはり差別が発生してしまいますね。

ちなみにすべての企業が半数ずつ採用という形の規制であるのが問題であり,政府が企業1には8:2で,企2には2:8で雇うように規制すれば良いと考えるかもしれませんがそうではありません。まず政府に,各企業にとって最適な採用割合を把握する能力があるのでしょうか?おそらく無理でしょう。それではどうすればよいのでしょう。例えば企業側の申告を信じることができるでしょうか?

ここで企業側に赤と緑の潜在的能力に関する誤解がある状態に戻って考えます。企業1に「おまえの企業にとって最適な割合はどうなっているか」と聞けば,それは誤解を反映させた「うちは9:1です」などといったものになるはずです。おそらく申告は歪み,結果として赤が多く採用されることになります。このように,政府が完全な情報を持たない場合には差別禁止法を制定したり採用比率を強制したりしても統計的差別の問題は解決しません。

他に方法はないのでしょうか。いま考えているように赤緑間,そして赤緑内の潜在的能力が同一の設定の下では,実はもっと良い方法があるのです。それは企業に同数の採用を強制するのをやめて,まず教育訓練の段階にある子どもたちに対して一定の努力を強制すること,その上で能力に差がないことを試験データの公開等の様々な手法で宣伝することです。このとき採用が自由であるなら企業は能力が同じであることを前提として自社にとって望ましい割合の採用を行うでしょう。皆が幸せになれます。

差別があるときに「差別をしてはいけません」という法律を作ることや「男女は同じ人数だけ雇いなさい」と規制することを安易に考えがちですが,直接的な規制をすればすべて上手くいくわけではないのです。

では赤と緑の間に平均的な潜在的能力の差がある場合,そして赤同士,緑同士でも能力にバラツキがある場合に,どのような施策をとれば統計的差別を防ぐことができるでしょうか。考えてみてくださいね。

また能力の違いについての統計的差別だけでなく,正規雇用労働者の平均的離職確率が異なる場合に発生する採用に関する統計的差別についても対策を考えてみてください。場合によっては完全な差別解消はどうやっても無理だとあきらめざるを得ないかもしれませんが,その場合でもできるだけ望ましい状態に近づけるための施策を考えましょう。

というわけで続きはまた後日!

2011年1月14日金曜日

法的規制とインセンティブに働きかける制度設計の連携

こんにちは。今日はタバコのポイ捨てをいかに防ぐかという問題を例に挙げて,法的規制とインセンティブに働きかける制度設計の連携について考えたいと思います。

さて,いま政策や制度をデザインする立場にある人が,何らかの目標を達成するための制度設計を考えているとします。このとき動機付け(インセンティブ)には大きく分けてアメとムチがありますね(内発的動機等の論点は,今はとりあえずおいておきます)。

ムチとしての代表は法的な規制と,それに伴う罰則です。しかしこれだけでは不十分な場合も多く見られるため,誘導したい行為や結果を得るためにインセンティブ制度(アメ)を併用することが重要となります。

以下では,例としてタバコの吸い殻のポイ捨て防止を考えることにします。どうすればポイ捨てを減らすことができるのでしょうか。役所の担当者の気持ちになって考えてみましょう。

まず「ポイ捨てかっこわるい」といったキャンペーンを行うこと,また法律で直接的に規制することなどが考えられます。ここで規制する場合には,どう取り締まるかが問題となるでしょう。似ているような気がする問題として,自動車の路上駐車取り締まりがありますが,こちらは比較的取り締まりが容易です。なぜなら路上駐車とは車を置いて一定時間離れることなので。

しかし同様にポイ捨てを取り締まる担当者を少しくらい街に配置しても意味はないのではないでしょうか。それは,ポイ捨てをする人は取り締まる人の目の前では捨てないと思われるからです。捨てるなら誰も見ていないタイミングを見計らって捨てるはずですね。

ここで摘発が難しいからといって,罰則を強化しすぎても弊害があります。例えばタバコのポイ捨てを見つかったら罰金100万円といった制度を導入したら何が起こるでしょうか。このとき,ポイ捨てを見つけた取り締まり係と捨てた人との間での裏取引が起こる可能性がありますね。例えば,見つかった人が「1万円あげるから見なかったことにしてね」と取り締まる人に提案するかもしれません。しかしもっと問題なのは,取り締まり係の方が,何もしていない人に難癖をつける場合です。「お前今捨てただろう。罰金100万円だ。それがいやなら俺に10万払え」とかいわれるのは困りますね。怖くて街を歩けません。

このように防ぎたい行為を直接的に禁止して罰則を設けても実効性がない,または弊害が大きそうな場合には,どうすればよういのでしょうか。このときインセンティブに働きかける方法を経済学者は考えるわけです。例えば吸い殻にデポジットを設定してはどうでしょうか。タバコ一本あたり100円のデポジットを販売時に徴収し,吸い殻を20本分集めて販売店に持っていくと2000円返金されるといった制度を導入するのです。

誰も財布の中の100円玉を街にばらまかないですよね。同様に吸い殻をポイ捨てしなくなります。そしてこの制度には,さらに巧妙な仕掛けがあるのです。それは仮に酔っぱらった等の理由でポイ捨てをする人がいたとしても,道で吸い殻を見つけた人がそれを拾って換金しようとすることです。結果として街はきれいになるでしょう。

この施策には当然考慮すべき点はあります。両切りのピースはどうするんだというのは置いておいて,まずは費用です。この制度を運用するためには吸い殻の回収をする窓口を設定するなど費用がかかります。またいちいち吸い殻を店に持っていくこと自体にも費用もかかりますね。それだけではありません。例えば海外から吸い殻だけ輸入されて換金されることへの対策も考える必要があります。これを防ぐにはフィルターにチップ等を埋め込むとかが必要になるのでしょうか。他にどんな問題があるでしょう?考えてみてください。

いずれにせよ,設定した政策目的に対して,規制と罰則の効果と限界を理解し,他に組み合わせられる制度がないかを検討することは政策分析の基本なのです。そして想定できる限りありとあらゆる手法について考察し,ベストのものを選びましょう。このとき規制だけで十分なケースもあるでしょうし,他の施策との組み合わせが有効かもしれません。

さて問題です。ここであげたデポジット制以外にどんな制度が候補として想定できますか?考えてみてください。たとえばタバコ自体を完全に販売輸入禁止にするというのも一案ですね。

ちなみに,事前にさんざん考えたのに,結果として予想外の結果になりうまく行かないことも起こるかもしれません。しかしそれはそれで仕方ないのです。検討の段階でも費用対効果をよく考えるべきですから。検討段階で100%を目指しても,100%にはならないかもしれませんし,なっても遅すぎる可能性があります。HIVの画期的な新薬があっても認可に時間をかけすぎていたら結果として救えた命が失われるかもしれません。何事も比較考量が大切ですね。

というわけで,人々の何らかの行為を防ぎたい場合には,直接的な規制やインセンティブに働きかける制度設計,そしてその併用を考えることが有用なのです。